「効果がなかったアベノミクス」 (時事雑誌 「L'Express」 (仏)より)
Au Japon, l'effet Abenomics n'a pas eu lieu - L'Express
効果がなかったアベノミクス
2014年11月17日
2013年初頭に首相が仕掛けた政策も空しく、日本経済は再び後退の一途をたどっている。デフレを克服した先にあったのは、八方ふさがりな国の姿だった。
日本経済がまた後退し始めた。何かこう、泥沼に陥った感がある。それを語るにふさわしい、諏訪貴子という女性がいる。快活で笑顔を絶やさない彼女は、11年前、父親が立ち上げた小さな金属加工会社を引き継いだ。大田区にあるダイヤ精機は30名の工員を雇う。20年物の機械を使って身をかがめながら彼らが製作するのは、ミクロ単位に精密に削られた自動車産業向けの金属部品である。
「日産やトヨタを始めとする自動車メーカーは、要求が厳しすぎて部品の生産をロボットに委ねることができません。それに、海外のライバル会社に脅威を感じることはありません。なぜなら、私たちの技術は誰にも真似できないほど専門的だからです。」と、諏訪氏は言う。しかし、その言葉とは裏腹に、会社の存続は簡単なことではなかった。
2008年の世界的不況が自動車業界に与えた影響で、この若き社長は会社をたたむ寸前まで追い込まれた。2011年の大地震と津波、そして原発事故は、それに輪をかけた。だからこそ、諏訪氏は、安倍氏が2年前に掲げた大々的な経済復興計画に大きな期待を寄せた。しかし、待ち望んだ成長が訪れることはなく、彼女の希望は無残に砕かれた。
「私たちのような中小企業はとても厳しい状況に置かれています。」と彼女は語気を強める。「日本がアメリカを追い抜きそうな経済情勢を保っていた80年代後半、この界隈には9000近い企業が軒を連ねていました。それが今は3000にまで減り、その多くはぎりぎりの経営を強いられています。経営者は高齢化し、その子供たちは後を継ぐことを拒んでいます。安倍氏は身内の友人でもあり、彼の政策をずっと支持してきましたが、実際には何も起きませんでした。」
彼女に限らず、今回の政策に期待し続けた人は多かった。なぜなら日本経済は、かれこれ20年近く右肩下がりのデフレの泥沼にはまっているからだ。90年代後半の株価と地価の大暴落をきっかけに、物価の落ち込みは98年と99年にピークを迎え、日本の経済システムを完全に麻痺させた。自動車に置き換えて言うと、再発車するための「回転運動を可能にするクランク」が故障しているにもかかわらず、運転席に座り続けているようなものである。米国と中国に次ぐ第3の経済大国は、勢いよく成長した後、停滞してしまった。まるでタイヤが空回りしているかのように。
「デフレは、悪循環なのです。」そう言ってため息をつくのは、首相のアベノミクスを指南しているとされる本田悦郎。「月を追うごとに物価が下がるとき、消費者は安いうちに支出して、その後、財布の紐を締めてしまいます。その結果、企業は投資をやめ、賃金をカットします。それが続くとすぐに経済は麻痺してしまい、特効薬はなかなか見つかりません。」1933年から38年の間、アメリカではルーズベルト大統領のニューディール政策が1929年に始まった世界恐慌を克服させた。第二次世界大戦以来、これほど長期間のデフレを経験している国は日本以外にはない。
停滞する賃金と消費
早急に対策を講じなければならないということは、誰もが認めている。しかし、政府が放った弓は、的の中心を外れていた。まず、2013年初頭に施された景気刺激策の多くは、市場に活力を与えたとされている。ただ今思えば、うまく離陸したかのように見えたそれは、束の間の閃光にすぎなかった。そして、日銀が指揮をとった金融緩和政策は、銀行による企業向けの融資や輸出に好影響をもたらす円安を進めさせるために、国を新札で溢れかえさせた。
ただし、これも期待したほどの成果を見せなかった。現在、法人・個人共に貸付け申請数は停滞している。2年も経たないうちに日本円がドルに対して26%も価値を失ったのは、弱々しい世界経済に直面した大手の企業グループが、外国通貨の小売価格を据え置いたまま、確実に利益を得ようとしたからである。
企業の多くが工場を海外に移転したために、日本のGDPに占める輸出の割合は、(ドイツ51%、韓国54%に対して)たったの15%しかない。結局、円安がもたらしたのは、48基の原発が停止していることで既に上がっている光熱費の上昇ばかりだった。消費者にしてみれば、ガソリンや輸入食品、中国製の電化製品がこれほどまで高値に感じたことは今までなかったであろう。
困ったことに日本の経済界の上層部は、利益が上がっても賃金アップを渋り正社員を増やすことを拒んでいる。政府がプレッシャーをかける中、安定した職についている労働者たちの名目所得は今年の春以降少なからず増大したが、労働者の10人に4人は定職に就けずその恩恵を受けていない。物価と賃金が下げ止まったのは確かである。しかし、日本がデフレから脱却したと言い切るのは時期尚早だ。そもそも、根本的な問題は解決していない。国内総生産の230%にまで膨らんでいる国の財政状況を改善するために、5%から8%に引き上げられた消費税は、これまでの消費刺激策を台無しにしている。
残るは蓄えたエネルギーを発散するはずの3本目の矢である。これは、未だに形が見えていない。2013年3月、首相は、アジア・環太平洋地域の経済を包括する巨大な自由貿易協定、TPPに即時に合意することを約束したはずだった。しかし交渉は長引いている。なぜなら日本が一部の分野における関税撤廃を渋っているからである。よりによって、それらの分野を仕切っているのは、与党寄りの圧力団体だ。一方、労働市場改革も地方行政などと意見が対立していて進んでいない。
女性と外国人労働者に呼びかけ
「アベノミクスを闇に葬るには早すぎます。」そう評価するのは経済学者で日本総合研究所の理事長を務める高橋進。「政府にはまだ目標を達成し、日本を蘇らせる余地が残されています。ただし“3本の矢”だけでは不十分です。もっと日本人の心理に訴えなければなりません。日本の出生率の低下は、毎年0,5%の労働人口の低下に繋がっています。この状況では、毎年平均2%の経済成長を得るために、実質2,5%も生産性を上昇させなければなりません。そのためには、日本式の経営方法をくまなく改革する必要性が出てきます。何時間デスクに座っていたかではなく、成果に準じて賃金を払うべきときが来ていると言えます。」人口統計学上では、1億2千700万人の現在の人口は、2060年には1億人に減ると推測されている。それでなくても、4人に1人が60歳以上である。「遅かれ早かれ日本は人手不足の問題に直面します。」高橋進はつづける。「雇用促進や、女性の登用に力を入れるのはもちろんですが、長い目でみれば1千万人の外国人労働者を受け入れなければならないでしょう。」
頭のいたい話である。日本人は欧米観光客は大歓迎するが、専門職についていない外国人労働者の存在は快く思っていない傾向にある。この実態は建設業や飲食業界の経営者にとって悩みの種なのだ。移民が厳しく規制されている日本列島に滞在する外国人は、たったの150万人と言われている。国家主義者をちらつかせる保守派の安倍晋三は、この分野を開拓するにもっとも相応しくない立場にある。
しかしそれとは別に、首相はある日突然、同胞を驚かせるリスクを冒しながら“働く女性の権利担当官”に変貌した。アベノミクスの政策の一つに割り当てるほどの力の入れようだ。機は熟している。第一子を出産した日本人女性の60%が、保育施設に空きがなかったり料金が高すぎることを理由に、出産直後に職を離れている。また、復帰する女性たちは、彼女たちをライバル視する男性の同僚から咎められることも稀ではない。政府は2018年までに40万人分の保育施設を新設すると約束したが、意識改革は長引きそうだ。
松本晃がその事情に詳しい。彼が日本のスナック菓子メーカー最大手のカルビーを率いるようになって5年が経つ。アメリカの企業で実績を積んだ彼は就任以来、社内の多様性、特に女性の登用を擁護してきた。「男性社員は皆、私の方針に賛成しています。でも私は、(彼らの従順な姿勢は)本音ではないと思っています。」そう彼は打ち明ける。「わが国の労働環境は、男性に都合のいいようにできています。これは不健全なことです。企業には“都合のいい場所”であり続ける使命はありません。私は、女性や外国人、そして社会的少数者に可能な限りの環境を整備しています。なぜならそれが業績につながるからです。でも私自身は、事あるごとに孤独を感じています。」
「私は現在67歳で、ほとんどの友人も日本の大企業の経営者です。その多くは、女性の登用を優先課題の最後列に持ってくるべきだと考えています。彼らは悪い慣習を取り返すために、安倍晋三が引退するのを待っています。安倍氏を除く政治家は皆、女性の登用を擁護していません。1955年から88年までに経験した高度成長期の経済モデルは恍惚でした。でももう祭りは終わりです。日本人は何か別の生き方を見出さなければなりません。そして、それを模索しているのはごく一部に過ぎません。」
「礼儀正しい反逆児、奥田愛基(あき)」 (Libération.fr より)
Aki Okuda. Le révolté poli - Libération
礼儀正しい反逆児、奥田愛基(あき)
2014年12月8日
右派政権が作った自由を阻害する法律に、熱心に抗議する日本人の学生がいる。
その彼は、20分以上の遅刻を申し訳なさそうにする様子もなく、ゆっくりと現れた。時間厳守が最低限の礼儀とされる日本では珍しいことである。
澄ました顔のサラリーマンや孤独な高齢者が行き交う横浜の喫茶店で、すぐに彼だとわかった。体を揺らせながら歩く彼の名は、奥田愛基。まばらな顎ひげを丸顔に生やし、腰パン、頭にはNikeのキャップという恰好だった。ダブついた緑のジャンパーには、SASPLと印刷されている。SASPLはStudent against secret protection law (特定秘密保護法に反対する学生有志の会)の略。一年前に発足されたこの会は、“特定秘密に指定された事項を公開しない法律”の廃止を求めている。政府はこの法律によって、防衛、原子力、対テロリズムなどに関する膨大な情報を国家機密に指定する権利を持つことになる。情報を漏洩したり、情報を得ようとする行為には、懲役10年が課されるという。「これは危険な法律です。憲法で保障されている権利を侵害する、曖昧な文面だらけです。これでは、政府に不都合な情報を何十年も隠蔽することに利用されてしまい、誰が逮捕され、どのように監視されているのかも全くわからなくなります。国民の自由が脅かされています。」と、奥田愛基ははにかんだように言う。
政治学を学ぶこの22歳の大学生は、12月9日と10日に予定されている秘密保護法施行に対する抗議デモに、“少なくとも千人”が集まると期待している。10月末、彼と100人近い仲間は、2千人のデモ賛同者を集め、歩き、踊った。先導するサウンドカーからは、ラップやヒップホップが流れ、右派総理・安倍の言動に抗議するキャッチフレーズが繰り返し叫ばれた。そのほとんどにはフランスの反ファシズム、アラブの春、ボブ・マーレーの言葉が引用されていた。彼らは、微々たる資金で声をあげ、少ない人数をものともせず人々を驚かせながら渋谷の街を闊歩した。
ロードローラー
参加した学生たちは、安倍が進めるロードローラーのような計画に対抗する列車に乗り込んだ。弁護士、学者、小説家、一般市民・・・政治的行き場をなくした一部の左派系日本人が、原発再稼働反対、国家の反平和主義反対、戦争まっしぐらの国家主義(首相の周りで盛んな歴史修正主義)反対、を掲げて集まっている。そこに、都会に溢れるソーシャルメディアを有効利用したSASPLが参戦し、参加者の平均年齢を押し下げた。独自の方法・スタイル・言葉で秘密の扉から現れた彼らは、“老いと退屈、保守と悲観が交錯する政界”を取り囲む背景の一部になった。大人の多くが、賢い消費生活を規律正しく送る若者をよしとする中、SASPLは、軽快に抗議することの喜びや楽しみを提示できる若者がいることを世間にみせつけた。
躾け社会
しかし、奥田愛基とその仲間たちが、活動的な若者のあるべき姿を示し、先導する立場を確立できたかというとそうではない。デモがしばしばテロと同等の扱いを受けることもある国において、手応えといえば自己満足以上のものは得られていない。この国では、同調や同意を追及することは、犠牲や服従の積み重ねを意味する。「日本人は公益や政治に対して無関心な傾向にあります。」そう評価するのは、30年以上日本社会を研究している社会学者、ミュリエル・ジョリヴェ。「“お任せします”という表現がすべてを物語っています。日本の教育システムは、学生に問題提起をさせないようにできています。どうせ何も変わらないんだからやってみるのは無駄だと思わせ、おとなしく人の話を聞きくように躾けられるのです。この国は、ある意味、自動操縦で動いていると言えます。」
それに騙されなかった奥田愛基は、残念そうにうなずく。「2千人なんて、大した数ではありません。でも、学生の多くは、僕たちのやっていることに無関心ではないはずです。」慎重な活動家である彼は、デモにこだわる扇動者と見なされないように気をつけている。「学生に参加してもらうためには、政治を前面に出したり、怒りをあらわにしたり、過激なことを言って怖がらせるのはご法度です。そうやって耳を貸してくれる人はいません。」嫌な目にも遭った。ツイッターやフェイスブックで、国家主義者が侮辱の代名詞として連呼している“在日韓国人”呼ばわりされたり、“政治に関わってないで勉強しろ”と命令されたりした。でも彼は気にしなかった。
決断
2012年、彼は気分が乗らないまま中道左派政党に投票した。12月14日の選挙では、特定の政党を推すことなく、学生に投票するよう働きかけるつもりだ。ヒップホップと映像が趣味の奥田は、格好いいことには熱心で、授業はサボりがちな学生の代表格のように見える。しかし、エレクトロのクラブに通う傍ら、ジル・ドュルーズ(フランスの哲学者)やミッシェル・フーコー(フランスの哲学者)、マックス・ヴェーバー(ドイツの社会・経済学者)を読んでいるという。インタビューの間、フランスの極右政権の台頭、物申すフランス国民、欧州の経済危機について、絶え間なく質問を浴びせてきた。日本の南方で生まれた彼は、“ゆとり”教育を受けた世代である。彼らは、授業数を減らし個々の才能を開花させることに重点を置いた教育を受けた。周囲の貧しい人々に手を差しのべる牧師の長男として生まれた彼は、お世辞にも輝かしい少年期を過ごしたとは言えない。学校や近所で受けたいじめを理由に家を出たのは14歳のとき。「薬物に手を染め、自殺未遂する友人たちには懲り懲りでした。」思春期の少年は、親元を離れる決断をした。「日本版マザー・テレサのような父親に愛想をつかしました。ホームレスを家に泊めるので、私的な場所が家にはありませんでした。」両親との凄まじい口論の末、小さな孤島の里親のもとで生活することになった。高校卒業後、いとこを頼って横浜に移住。夜中にコンビニでアルバイトをしながら学費と生活費の足しにした。2011年3月11日に津波が東北を襲ったとき、国際学部で海外の人道支援などを学ぶ予定だった大学生は、見たこともない日本の姿を目の当たりにする。それは、東京が興じている間に、津波で壊滅し放射能に汚染される東北の悲劇だった。
彼は、一年間、毎週末被災地に通い続けた。事態が一段落したころ、数ヶ月間カナダで“考えを巡らす”ためにアルバイトに没頭した。世界の門戸を開き、英語を身につけながら旅をした。日本の心地よさは忘れた。複数国に広がったアラブの春、そこで目覚めた若者たちに興味を抱いた。特定秘密保護法を取り巻く議論が、カナダから戻った彼を迎えた。“脅かされている”と直感してから、「もっと遊んで」と言う恋人の不満を避けるようにして、抗議行動に没頭した。恋人の要求をすんなり受け入れるような彼ではない。
※1月6日、奥田さんご本人のツイートより、一部に事実誤認の表現があったようなので、原文の範囲内で修正しました。